OSAKA TATTOO DESIGN
大阪城のタトゥーデザイン
大阪の象徴「大阪城」とは?
大阪城天守閣と豊臣秀吉の冑(かぶと)のタトゥーデザインです。
「大坂夏の陣」で焼失した大阪城天守閣を、炎に包まれる豊臣秀吉の冑(かぶと)と共に描いたタトゥーデザインです。
大阪で大阪城は「太閤さんの城」とも呼ばれ、親しまれています。
天下統一を目指す豊臣秀吉によって1583年から築城が開始され1585年に完成した大阪城には、黄金好きな秀吉により外壁や瓦に金がふんだんに使われ、天守閣内部にも金銀の装飾が施され、金城や錦城とも呼ばれていたそうです。
天守閣が完成した後にも、二の丸、三の丸、総構えと何重にも塀と運河を作り、強固な防衛体制が取られていました。
現在でも大阪城は広い敷地なのですが、豊臣秀吉の頃と比べると1/4から1/5位の大きさしかないそうで、その頃のスケールの大きさに驚きます。
豊臣秀吉の死後、「大坂冬の陣」で徳川家康との戦いが繰り広げられ、和平交渉の結果、二の丸と三の丸が埋め立てられる事となり、家康は徹底的に堀の埋め立てを実行したのだそうで、その結果、本丸は丸裸の状態となります。
「大坂冬の陣」の和議から約5ヶ月後に徳川家は再び大阪城を取り囲み「大坂夏の陣」が始まります。
丸裸となっていた大阪城はわずか3日程度で陥落し、豊臣家の滅亡と共に消失します。
燃え上がる炎は大阪の夜空を真っ赤に染め、京都の町からも真っ赤な空が見えたそうです。
焼失した豊臣大阪城の跡に、徳川家の権力を誇示するため、以前より大きく見せるために盛り土をして高台が作られ、その上に徳川大阪城の天守が建設されました。
徳川大阪城は江戸時代にたびたび火災にあい、修復を繰り返していましたが、1665年に落雷によって天守閣が焼失します。
その後の大阪城は天守閣のないままでしたが、1931年に当時の大阪市長の呼びかけにより市民らの寄付が集められ豊臣大阪城と徳川大阪城が混ざり合ったデザインの天守閣が甦る事となりました。
復元された天守閣は、国の登録有形文化財となっています。
今回、大阪城と共に描いた豊臣秀吉の特徴的な冑(かぶと)は馬蘭後立付兜(ばらんうしろだてつきかぶと)と呼ばれるもので、縁起物である菖蒲の一種である「馬蘭」と言う植物の葉をかたどったものとされています。
朝日が昇るところを表したそうで、まるで後光が差しているようなデザインにも見て取れます。
大阪城の周りに広がる大阪城公園には全体で約3000本もの桜の木があり、桜の名所としても知られ、毎年春になると桜を愛でる大阪の人々で賑わいます。
人気のある桜の花を、大阪城と秀吉の冑に散らして描きました。
桜は海外でも人気のある日本らしいタトゥーモチーフですが、冑も日本を象徴する良いモチーフとなりますね。