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大阪のタトゥーの歴史
日本の歴史で一番古く刺青と関係があるとされているのが、
縄文時代の土偶です。
土偶の表面には
トライバルタトゥーのデザインを想像させる様な
クルクルとした模様が描かれており、
この模様は刺青のデザインを表していると言われています。
下の画像は当スタジオのトライバルの画像ですが、
現在のトライバルデザインは
日本の古代模様をも想像させます。
縄文時代の土偶は沖縄を除く日本全国で発見されていますが、
関東地方から発掘されたものが多いのだそうです。
これは、関東地方ではクリやドングリなどを主食としていて、
秋の収穫の時期には沢山の人が協力して収穫する必要があり、
土偶を使った祭祀を行って集団としての生活を統制していたけれど、
関西では鹿やイノシシなど狩猟生活が中心で、
地域による主食の違いから土偶との関わり方にも違いがある、
と言う説があります。
発見された地域によって土偶の形は異なり、
トライバルの様な模様のない土偶も発掘されていますが、
模様のない地域は刺青の文化がなかったと言う事なのか?
全国的に刺青が行われていたのか?
などは分かっておりません。
その後の弥生時代、
日本の民族について書かれた中国の歴史書「魏志倭人伝」には
「男子は大小と無く、皆黥面文身す」との記載があります。
これは
「邪馬台国の男はみんな、顔面に刺青を入れていた」
と言った意味になるそうです。
その後、時代は進み、刺青を禁止する時代もありましたが、
「体を装飾する」と言った
何千年も前から人間が行ってきた習慣が
完全に消滅していたとは考えにくいのだそうです。
禁止はされていたけれども、密かに続けられていたのかも知れません。
そして、江戸時代になり装飾として刺青の技術が発展し、
江戸では火消しや鳶や飛脚や博徒と言った肌を露出する職業の人にとっては
粋な文化として非常に人気があったのだとされています。
この頃はさて大阪でも人気があったのかどうか?
「大坂」から「大阪」とも書かれるようになった江戸時代の大阪は大変大きな都市であり、「天下の台所」と呼ばれた様に経済の中心としての大きな役割も果たしていたのだそうです。
全国各地からの物資は大阪に集まっていたそうですから、
大阪で広く行われていたのではないでしょうか。
明治時代に入り、鎖国から開国へと扉が開かれ、
日本へ行き来する外国船のセーラー達によって日本の文化も海外へと伝えられ、
「日本の美しい刺青の文化」も広く知られるようになったそうです。
イギリスのジョージ5世は海軍16歳の時に日本を訪れ、龍の図柄を彫って帰ったのだそうです。
同じく兄のアルバートも鶴の刺青を彫っています。
当時の新聞には
「『日本より文明が進んでいるイギリスの王子が彫るなら、
親からもらった体なのだからと身体改造を禁止する儒教の教えなんて、
気にする必要はない!自分も入れよう』
と言って、大阪の人々は彫師の元を訪れたそうです。」
と言った感じのニュースが掲載されたそうです。
その頃に大阪で活動する彫師さんは、
龍のオーダーが増えたかな??
沖縄特有の刺青として「針突(ハジチ)」と呼ばれるものがあります。
沖縄の女性たちがお守りや魔よけや祈りを込めて手に施していたそうです。
世界のトライバルタトゥーが部族ごとにデザインが異なる様に
ハジチも様々な模様がありました。
明治時代に政府から禁止令が出されましたが昭和初期まで密かに行われていたそうです。
歴史上の記録に残されていない地域特有の刺青というものも存在するのかもしれません。
タトゥーの別の呼び方として「もんもん」と言う言葉を聞いたことがありますか?
「もんもん」は大阪での刺青の俗語だったそうです。
「もんもん」の語源は「俱利伽羅紋々(くりからもんもん)」です。
不動明王が右手に持つ剣は「俱利伽羅剣」と呼ばれ、
不動明王の象徴とされる炎に包まれた黒龍(俱利伽羅竜王)が
岩の上に刺さった俱利伽羅剣に巻き付いている図柄を背中一面に彫った刺青は俱利伽羅紋々と呼ばれていたそうです。
その内に背中一面に彫られた刺青を総称して「俱利伽羅紋々=もんもん」と呼ばれるようになった様です。
大阪のタトゥーの歴史の、ほんの一部の話題なのでしょうが
少し知ると、もっと知りたくなるもんです~。